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2004.04.13

五代雄介という伝説

 「仮面ライダー クウガ」、引っ張りまくりましたがようやく鑑賞完了。半年かー。長かった。
 最後の方は人に借りられちゃうと「続きー」と地団太踏むことになりそうだったんで、DVD二枚ずつ借りて見ました。三話構成になってたりしたんで正解。最終三話はなんでだか泣きそうになりました。もう、五代、死にそうなんだもん。死なないのは知ってましたが。
 実際、クウガに変身するヒーローの責を負った五代雄介は死んだことを表しているとも取れる最終回でした。一条刑事以外の誰も、最終戦の後五代には会ってないわけで。いなくなったヒーローを懐かしむ人々の姿は、うがってみれば亡くなった誰かを偲んでいるようにも見えるし、何よりみのりっちが「でも、先生は4号なんかいないほうがいいと思うんだ」と子どもに言ってる。終盤で真っ青な海に真っ青な空、という絵に描いたように冒険野郎にお似合いな土地を訪れている五代が出てきますが、みょーにパラダイスめいた風景がさらにこの世っぽさを薄くしてます。
 元々五代雄介という青年は実際にはいないっぽい、なんていうのか、この時代にヒーローを引き受けてくれるとしたらぎりぎりこういう人でないと!みたいな、現実と折り合いをつけるファンタジーのような存在だと思ってました。「みんなの笑顔」を望むようになった生い立ちが語られようとも、本人が「自分にできる無理をしてるだけだ」と言おうとも、天然系という言葉ではくくりきれない、控えめな理想の具象のような現実感のなさ。もしかしたら、五代雄介という存在は実態ではなく、未確認生命体に立ち向かう人たちの、それこそできる限りの無理をする努力の総念が生み出したヒーローなのかもと思わせられることも多々ありました。
 だからこそ、よくもオダギリジョーをキャスティングしたもんだ、と、スタッフの感性に驚きます。役者によっては話が進めば進むほどひたすら現実感が乏しくなっていきそうな五代雄介がかろうじて肉体性を持ってられたのは、やはりオダギリジョーに負うところが大きいでしょうから。
 暴力描写によって独りの人間にできることの限界を表現してきた「クウガ」だけど、それでも世界観というか、作品の視線は現実の汚さ・しんどさよりも理想を向いていたようにも思います。今のこの苦境をすぐには解決できなくても前を向く。「本当は奇麗事のほうがいいんだ」と言い切ることは、本音指向が見える昨今だからこそ、ヒーローものの責務じゃないかと。
 もちろん、これからも何もせずとも世の中は理想に向かって動いていくのだというほどノー天気な話でもなく、バラのタトゥの女は何度も「リントは我々と同じになった」と言ってます。五代という伝説を越える存在を生み出したリントだけど、同時にうっすらと広くグロンギの性癖も備えつつあるとにおわすことを忘れてません。
 「ウルトラマンティガ」を見たときも思ったけど、もの作りには奇跡のような力が宿るときがあるんだな、とクウガを見ながら思いました。作り手たちの原典に対する情と疑問に誠実に答えながら作られた作品です。

 見てるときは聞き流してたグロンギ語ですが、さすがにバラのタトゥの女の最期の言葉は気になりまして。今さらながら、ネットで検索。なるほどー。こう言ってたんですか。

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