「ico」、読了
宮部みゆき渾身のノヴェライゼーション、「ico」読了。
残念ながら、今回は完敗ではなかったかと>宮部さん。
けして宮部みゆきに力がなかったわけではないです。単品として読むなら、オーソドックスなファンタジーとして、「ico」はかなり完成度の高い読み物のはずなのです。
でも。ゲーム「ico」のノヴェライゼーションとしての評価となると。つらい。
元のゲームは、わたくし途中で放置してまして、相方がやってるのを横でべたーっと見るというズルい形でしか知りません。それでも、「ico」はこのゲームオリジナルの空気を含んでいるのだということがわかります。画面の向こうの城。聞こえるのは風と海鳴りと鳥の鳴き声。人気のない廃墟のような城を、言葉の通じない少女を連れて、探索しながら進んでいく。静まり返った建物の中に、自然の音が小さく反響する。
そんなビジュアルに最低限の説明。登場人物のセリフすらないに等しい世界にあるのは、イメージ、雰囲気、言葉にすれば消えてしまう類のもの。だから、「ico」を小説という言葉で構成されたものに置き換えるのは、どんな天才にも無理なことだったのではないかと。
後ねー。個人的にはイコとヨルダの距離感が違うなって思ったんですよ、宮部さん。ヨルダの手を引くイコのモーションには、子どもの粗暴さが見え隠れ。コントローラの振動もあって、「おいおい、そんなに強く引っ張っちゃ、ヨルダの肩が抜けちゃうよ」と心配になるほど。それなのに、どこか、年上の美しい、どこか悲しげな風情のお姉さんに対するあこがれとテレみたいなものも感じるんです。(その不器用さと、イコのアジアンな美少年とは程遠い顔立ちに萌えー萌えー)
勝手な妄想かもしれないけど(ちゅーか、不純な妄想)、「ico」のビジュアルにはそういう背景妄想を駆り立てるものがあって、きっとプレイヤーの数だけその妄想は広がってるから、一人が想像する確立した物語からはみ出る部分がたくさんあるのですよね。
宮部さんにはもうしわけないのだが、ここのところは他の表現には完全移植できないような、「ゲーム」独自の表現世界を持った「ico」という作品に軍配を上げときます。
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