いつかわかること
そんなこんなで接待ドラクエを終えて天神から帰宅すると、入れ食いのようにすれ違いの人が来て、私には当分いかんともし難いレベルの宝の地図をくださるのでした。こんなに少人数としかすれ違ってないのに、まさゆきも川崎ロッカーも来たよ…。日本の通津浦々をどれだけのデータが巡り歩いているのだろうとそら恐ろしくさえなってきますわ。さすが、出荷本数350万本。もはやゲームとしての出来うんぬんを置いて、プレイヤーの多さそのものが遊びとしての力を底上げしています。
Wiiを初めてプレイしたとき、年寄りなりに長らくゲームをやってきて初めて感じた不思議なプレイ感覚に驚いたものだけど、DSの通信機能とプレイヤー数の多さがもたらすプレイ感覚にもびっくりしています。
ゲームに興味のない人にはそれがどうした、でしょうけど、おそらく技術的には極めて初歩的なものの組み合わせでないものを感じさせるバーチャル感とか、ゆるいゆるいつながり感とか、体感した人にしかわからないし、それを知ってる人と知らない人の間にはなんとも伝えようのない距離ができてる気がします。
大人は趣味の世界だからと割り切れることなんだけど。親と子の間で子どものやってることがさっぱりわからないというのはどうなんだかなあ…。世代が進むに連れて、共有できない分野がどんどん増えていくような。
とか言いつつも。
ドラクエはRPGなのでストーリー性のあるゲームなんですが、先日あるイベントをクリアして思ったことがあります。(以下、ドラクエ9のストーリーの一部をネタばれ)
かつて恋人を置いて故郷の村を離れ、彫刻の修行に出た芸術家がいました。若い彼はいろんな土地を見、その体験を作品にして技術と感性を磨くのが楽しくて夢中で、すぐに帰るからと言いおいた恋人のことも忘れて諸国を旅して回りました。いつの間にか月日は流れ、故郷の村では彼を待つのに疲れ果てた恋人が別の男の愛情にほだされて結婚したことを彫刻家は風の噂に知ることになります。帰る場所を失った彼は石材の取れるある山にこもり、生涯をかけた作品を作りました。それは故郷の姿をそのまま引き写した彫刻の村。住民までもが再現されたその村には、あり得たはずの彼と恋人の住む家が作られていました。
やがて彫刻家は老い、死のときを迎えます。彼は偶然手に入れた神の力を持つ果実に願いをかけます。この石の村が荒らされることがないように。自分の最高傑作が、故郷と恋人への思いが詰まった作品が死後も無事に残るようにと。けれども、人の手に余る果実の力は山を訪れる者全てを排除するモンスターを生み出してしまうのでした…。
というわけで、プレイヤーは今は亡き彫刻家の願いが生んだ怪物を退治することになるんだけど。この彫刻家の故郷の村というのが、プレイヤーが以前訪ねたことがある場所なんです。プレイヤーと共に旅する性悪のギャル妖精が残された石の村を見て、「人間って不思議だよね。なんだか悲しくてバカみたい」みたいなことを言うのです。そして、改めてその村を訪れ、おそらく彫刻家の恋人だったおばあさんに会うと「あの人が生きてて、そんなものを残したなんて…。今さらそんなことを聞かされてもどうしようもないわ」というようなことを言うのです。
おばあさんの言い分もわかる。でも切ない。
と思ったとき、ヲタ宴会で一緒にマルチプレイをした小学校低学年の友だちの娘さんはこのエピソードをどう感じたんだろうなー、なんてことも思ったり。
たぶん、まだレベル上げとかアイテムや装備の収拾とか、そういうのが楽しくて、人生のどうしようもなさなんてのはわかんないだろうけど。
でも、いつか、も少し年をとって、もしかしてドラクエ9のリメイクとか見たときに「ああ、こういうので遊んだわー。そう言えばこんなエピソードあったなあ。そうかあ…」と懐かしんでほしいものです。(実際、ドラクエ5がリメイクされるたび、男プレイヤーたちは誰を嫁にしたかを話題にする。5における嫁選びのエピソードは世代を超えた記憶になってるなーと思う)
子どもも大人もやってるゲームというのは、不思議な共有感と思い出を作ってくれる気がします。
今はわからなくても、いつかわかる大人の味をさりげに味わっておいてくれ。
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